どこかで、歌詞を間違えて記憶していたネタ(笑)が話題になっていたのを読んだ。
まあ有名な「コンダラ」だとか「いい爺さん」などは知っていたので、特に驚くこともなく読んでいたのだが、その途中で自分も勘違いしたままだった歌を一曲発見して、吃驚した。
♪アブラハムニーは 七人の子 ひとりはノッポで あとはチビ
で始まる、あの歌。
これは童謡になるのかな、外国の曲で作者不明、これに日本人が歌詞をつけたらしい。
幼稚園とか小学校低学年あたりで、踊り歌としても使われていて、昔の児童番組とかでもおねーさんやおにいさんが身振り付きで歌っている姿を見たことがある。
さて、上に歌の出だしを書いたが、これが間違いだったんですよ。
私はずっとこう記憶していたんだけどね。
アブラハムニーは外国人で(なんだか中東っぽい雰囲気の名前?)、七人兄弟の一人だろうと。
ただ、歌詞では何番目の子どもなのかは明らかにされていないので、今考えるとちょっと不親切な歌詞だ(笑)。
がしかし、本当の歌詞はコチラ。
♪アブラハムには 七人の子 ひとりはノッポで あとはチビ
なんと、名前はアブラハム(^^;。
しかもこの流れだと、アブラハムさんはお父さんの名前ではありませんか!
(…この後の及んでお母さんの名前だった…ということはあるまい…)
曲のタイトルは「アブラハムの子」。
…タイトル知ってればすぐにわかる勘違い歌詞なんだけど、歌のタイトルなんて覚えてないことのほうが多いんだよう。
曲の流れで、「に」の部分は伸ばして歌うことになるんだよう。
なんだかプチショックを感じた日…。
では、また。
まあ有名な「コンダラ」だとか「いい爺さん」などは知っていたので、特に驚くこともなく読んでいたのだが、その途中で自分も勘違いしたままだった歌を一曲発見して、吃驚した。
♪アブラハムニーは 七人の子 ひとりはノッポで あとはチビ
で始まる、あの歌。
これは童謡になるのかな、外国の曲で作者不明、これに日本人が歌詞をつけたらしい。
幼稚園とか小学校低学年あたりで、踊り歌としても使われていて、昔の児童番組とかでもおねーさんやおにいさんが身振り付きで歌っている姿を見たことがある。
さて、上に歌の出だしを書いたが、これが間違いだったんですよ。
私はずっとこう記憶していたんだけどね。
アブラハムニーは外国人で(なんだか中東っぽい雰囲気の名前?)、七人兄弟の一人だろうと。
ただ、歌詞では何番目の子どもなのかは明らかにされていないので、今考えるとちょっと不親切な歌詞だ(笑)。
がしかし、本当の歌詞はコチラ。
♪アブラハムには 七人の子 ひとりはノッポで あとはチビ
なんと、名前はアブラハム(^^;。
しかもこの流れだと、アブラハムさんはお父さんの名前ではありませんか!
(…この後の及んでお母さんの名前だった…ということはあるまい…)
曲のタイトルは「アブラハムの子」。
…タイトル知ってればすぐにわかる勘違い歌詞なんだけど、歌のタイトルなんて覚えてないことのほうが多いんだよう。
曲の流れで、「に」の部分は伸ばして歌うことになるんだよう。
なんだかプチショックを感じた日…。
では、また。
子どもだなぁ。
と感じるのは、そこに幼さが感じられた場合。
突発的な感情の制御ができないだとか、自己中心的なわがままさだったりとか。
若いねぇ。
と感じるのは、そこに視野の狭さが感じられた場合。
主義主張はちゃんとあるんだけれども、経験や知識が少ないので、リアリティの足りなさが垣間見えたりする。
大人だねぇ。
と感じるのは、そこに余裕が見える場合。
自分の言動の後に発生するであろういろいろなことに対応する準備ができてますよ、という姿勢が見えたりだとか。
別に、それぞれの感想そのものに良し悪しはないんじゃないかと思う。
程度の問題なわけで、ほほえましい子どもっぽさもあれば、皮肉のキツイ大人な態度もあると思う。
ただ、自分でそれらの感想を持った時って、改めて自分がその対象物(者)に対して向ける視線の方向を自覚する契機になるのよね。
そこで、自分が認識している立ち位置と、それら感想の示す視線の方向性が違っていたりすると、なんだか自分の中の暗い茂みをみつけちゃったような気分になって、ドキっとしたりする。
では、また。
と感じるのは、そこに幼さが感じられた場合。
突発的な感情の制御ができないだとか、自己中心的なわがままさだったりとか。
若いねぇ。
と感じるのは、そこに視野の狭さが感じられた場合。
主義主張はちゃんとあるんだけれども、経験や知識が少ないので、リアリティの足りなさが垣間見えたりする。
大人だねぇ。
と感じるのは、そこに余裕が見える場合。
自分の言動の後に発生するであろういろいろなことに対応する準備ができてますよ、という姿勢が見えたりだとか。
別に、それぞれの感想そのものに良し悪しはないんじゃないかと思う。
程度の問題なわけで、ほほえましい子どもっぽさもあれば、皮肉のキツイ大人な態度もあると思う。
ただ、自分でそれらの感想を持った時って、改めて自分がその対象物(者)に対して向ける視線の方向を自覚する契機になるのよね。
そこで、自分が認識している立ち位置と、それら感想の示す視線の方向性が違っていたりすると、なんだか自分の中の暗い茂みをみつけちゃったような気分になって、ドキっとしたりする。
では、また。
自覚はありますよ。
私はナルシストです、自分の文章に対して。
創作文とか、手紙とか、日記とか、とにかく私は自分の文章が大好き(笑)。
もともと文章を書くことがすきだというのはあるけど、自分の気持ちを文章として出力すること、そしてそれを後から読み返すのが、凄く好きなんですよ。
古い、子どもの頃に書いた文章だとか、今読むと恥ずかしいものや、稚拙な表現や、見栄っ張りなものなど、とてもじゃないけど他人にはお見せできないもの全部、読み返すのが好きなんです。
文章表現に対して自信があるわけでもないし、国語力という意味での文章力も特別立派なものがあるわけじゃないんです。
ただ、私は文章として表現することで、その表現したいと思った感情を思い出すことができるのが好きなんだと思います。
体験した事って、すっごくよく覚えていることばかりじゃなく、やっぱり忘れたりする。
時間がたてば、忘れたことだって忘れてしまって、自分の記憶からはまるでなかったことになっていたりする。
例えばそんなことがらに関して、何年か後に自分の書いた文章を読むことで思い出すことが出来たりすると、今度は違った感想を持ったり、いややっぱり以前と同じ気持ちになったり、追体験することになる。
そういう経験も自分では大切なのかなとも思うし。
これまで毎日なにかをするという行為が苦手でずっと退けてきたわりには、ここの日記は意外に長く続けられているのも、そんな気質からくるんでしょうね(^^;。
では、また。
私はナルシストです、自分の文章に対して。
創作文とか、手紙とか、日記とか、とにかく私は自分の文章が大好き(笑)。
もともと文章を書くことがすきだというのはあるけど、自分の気持ちを文章として出力すること、そしてそれを後から読み返すのが、凄く好きなんですよ。
古い、子どもの頃に書いた文章だとか、今読むと恥ずかしいものや、稚拙な表現や、見栄っ張りなものなど、とてもじゃないけど他人にはお見せできないもの全部、読み返すのが好きなんです。
文章表現に対して自信があるわけでもないし、国語力という意味での文章力も特別立派なものがあるわけじゃないんです。
ただ、私は文章として表現することで、その表現したいと思った感情を思い出すことができるのが好きなんだと思います。
体験した事って、すっごくよく覚えていることばかりじゃなく、やっぱり忘れたりする。
時間がたてば、忘れたことだって忘れてしまって、自分の記憶からはまるでなかったことになっていたりする。
例えばそんなことがらに関して、何年か後に自分の書いた文章を読むことで思い出すことが出来たりすると、今度は違った感想を持ったり、いややっぱり以前と同じ気持ちになったり、追体験することになる。
そういう経験も自分では大切なのかなとも思うし。
これまで毎日なにかをするという行為が苦手でずっと退けてきたわりには、ここの日記は意外に長く続けられているのも、そんな気質からくるんでしょうね(^^;。
では、また。
来月に控えたイベントにむけて、情報収集中。
地図を入手したり、口こみ情報を読んだり、イマイチ熱意が入らないのだけど(^^;、ぼちぼち予定をたてているところです。
私は始めての場所に出向くのって、すごく苦手なんですよ。
知り合いなどがいないところで、例えば道に迷うことを想像するだけで不安になるぐらい。
だから、事前に自分が安心するまでとことんいろいろ調べまくるというクセ(?)があります。
先日観劇にでかけたときも、その劇場は数年前に行ったきりですでにどういうルートで出かけたのか記憶になかったのね。
それで、事前に劇場までの道のりだとか、乗り継ぎの駅、路線図の確認、時刻表のチェック、料金、周辺のお店情報などなど、過剰なほど下調べしてから出発しました。
だいたいそういう情報って、現地で助かったなぁと思うのって、調べたことの半分以下ぐらいで、ほとんどがわざわざ調べなくてもなんとかなりそうなことばっかりになるのね。
でも、そうなることも予想できても、それでも調べたくなるほどには不安を持つタイプなのです。
そういうわけで、結局は当日全部活用はできないのかもしれないけど、今いろいろ調べているところ。
無事、楽しく過ごせますように。
では、また。
地図を入手したり、口こみ情報を読んだり、イマイチ熱意が入らないのだけど(^^;、ぼちぼち予定をたてているところです。
私は始めての場所に出向くのって、すごく苦手なんですよ。
知り合いなどがいないところで、例えば道に迷うことを想像するだけで不安になるぐらい。
だから、事前に自分が安心するまでとことんいろいろ調べまくるというクセ(?)があります。
先日観劇にでかけたときも、その劇場は数年前に行ったきりですでにどういうルートで出かけたのか記憶になかったのね。
それで、事前に劇場までの道のりだとか、乗り継ぎの駅、路線図の確認、時刻表のチェック、料金、周辺のお店情報などなど、過剰なほど下調べしてから出発しました。
だいたいそういう情報って、現地で助かったなぁと思うのって、調べたことの半分以下ぐらいで、ほとんどがわざわざ調べなくてもなんとかなりそうなことばっかりになるのね。
でも、そうなることも予想できても、それでも調べたくなるほどには不安を持つタイプなのです。
そういうわけで、結局は当日全部活用はできないのかもしれないけど、今いろいろ調べているところ。
無事、楽しく過ごせますように。
では、また。
標準語はエライのか?(笑)
2005年5月25日 エッセイ例えば関西で育ったなら、自分の話す言葉が方言であるということを自覚するのは結構早いうちからあるのではないかと推測します。
しかし、普段の多くの会話では基本的には標準語なんだけど、たま〜に言葉の端々や地域固有の名称や事象を表現する時に方言が混ざるような場合、自分がその言葉を方言であると自覚して使うことがないんですよ。
偶然なんだけど、同居している相棒と私は同県の生まれです。
しかし、東西に広いこの県は(東海道新幹線の停車駅が六ヶ所もある)、同じ県とはいってもかなり方言にばらつきがあります。
なので、二人で会話をしていても、その言葉が通じないことがよくありました。
私が何気なくよく使っていた言葉に「みるい」ってのがあるのですが、これが伝わらない時にはびっくりしたなぁ。
「今日買ってきた玉ねぎはみるいから、早めに使いきっちゃわないとダメだねぇ」とか。
「この無花果はすっごいみるいよ〜」とか。
ホンキで不思議そうに見られて、ちょっと恥ずかしくなったり(笑)。
相棒は子どもの頃、親の仕事の関係でいろんな場所に住んだようで、あまり方言って口にしない。同じ土地に長く住まないと方言って身につかないんだなぁと納得しちゃったけど。
一応会社では基本的には標準語で会話している(つもり)だけど、家だといまだに、おぞいとかおとましいとか口にしちゃってその都度相棒からツッコミがはいるのよね。
ま、いいんだけど(^^;。
では、また。
しかし、普段の多くの会話では基本的には標準語なんだけど、たま〜に言葉の端々や地域固有の名称や事象を表現する時に方言が混ざるような場合、自分がその言葉を方言であると自覚して使うことがないんですよ。
偶然なんだけど、同居している相棒と私は同県の生まれです。
しかし、東西に広いこの県は(東海道新幹線の停車駅が六ヶ所もある)、同じ県とはいってもかなり方言にばらつきがあります。
なので、二人で会話をしていても、その言葉が通じないことがよくありました。
私が何気なくよく使っていた言葉に「みるい」ってのがあるのですが、これが伝わらない時にはびっくりしたなぁ。
「今日買ってきた玉ねぎはみるいから、早めに使いきっちゃわないとダメだねぇ」とか。
「この無花果はすっごいみるいよ〜」とか。
ホンキで不思議そうに見られて、ちょっと恥ずかしくなったり(笑)。
相棒は子どもの頃、親の仕事の関係でいろんな場所に住んだようで、あまり方言って口にしない。同じ土地に長く住まないと方言って身につかないんだなぁと納得しちゃったけど。
一応会社では基本的には標準語で会話している(つもり)だけど、家だといまだに、おぞいとかおとましいとか口にしちゃってその都度相棒からツッコミがはいるのよね。
ま、いいんだけど(^^;。
では、また。
読み返すという行為は、しばらく音信不通だった旧友に再会することに似ている
2005年5月23日 エッセイ久しぶりに本を読みかえす。
私が、私という人間に今の姿として成長して来た要素は大きくわけて二つあると思う。
ひとつは、一番近い他人(家族)の影響であり、もう一つは今までに読んできた全ての本の影響だ。
私の中には、父や母の影響が沢山残っていることを自覚しているけれども、ある時期まで近しい他人には見出せない視点が自分の中にあることを知って、びっくりしたことがある。
単純にその全部が私の内部から出てきたのかといえば、多分違うんだろう。
では、それはどこから来たのか。
子どもの頃から本を読むのが好きで、物語や随筆や研究書や思想書など、好みに偏ってはいるもののいろいろな本を読んだりしてきた。
そうして、物語や描写されるいろんなタイプの人間や物の理などに触れ、無意識のフィルターにかけれらたそれらの経験が、自分を造ってきたのだと思う。
「本に、いい本や悪い本はない。その瞬間の読み手にとって、丁度いいタイミングで丁度いい本にめぐり合うのだ」
これは、いま再読中の本にあった言葉(要約だけど)。
今まで、だから私は多くの本に造られてきたんだなぁと感じた。
読んだ本の全てを肯定的に読んだのではないけれども、そういうことを全部ひっくるめて、私を構成させたのかなぁ、と。
養分は見えない形で浸透していき、その後原型をとどめずに表現されるのではないか。
では、また。
私が、私という人間に今の姿として成長して来た要素は大きくわけて二つあると思う。
ひとつは、一番近い他人(家族)の影響であり、もう一つは今までに読んできた全ての本の影響だ。
私の中には、父や母の影響が沢山残っていることを自覚しているけれども、ある時期まで近しい他人には見出せない視点が自分の中にあることを知って、びっくりしたことがある。
単純にその全部が私の内部から出てきたのかといえば、多分違うんだろう。
では、それはどこから来たのか。
子どもの頃から本を読むのが好きで、物語や随筆や研究書や思想書など、好みに偏ってはいるもののいろいろな本を読んだりしてきた。
そうして、物語や描写されるいろんなタイプの人間や物の理などに触れ、無意識のフィルターにかけれらたそれらの経験が、自分を造ってきたのだと思う。
「本に、いい本や悪い本はない。その瞬間の読み手にとって、丁度いいタイミングで丁度いい本にめぐり合うのだ」
これは、いま再読中の本にあった言葉(要約だけど)。
今まで、だから私は多くの本に造られてきたんだなぁと感じた。
読んだ本の全てを肯定的に読んだのではないけれども、そういうことを全部ひっくるめて、私を構成させたのかなぁ、と。
養分は見えない形で浸透していき、その後原型をとどめずに表現されるのではないか。
では、また。
「あなたのおかけになった番号は、現在別の人が使用しています」
2005年5月11日 エッセイ私が仕事でお世話になってる方は、自分の席というのもあるのだけど、設計部門と斥候したり(設計部)、テスト用の試作機の調子をみたり(ハード部門の現場)、評価装置の仕様チェックをしたり(マシン待機場所)、あらかじめアポとって日時場所を決めて会うときでもないと、今どこにいるのか全然つかめない、忙しい人だ。
そういう人だから、緊急連絡などは会社支給の携帯電話が必須。
そのOさん(仮名)に会社から、新しい携帯電話が支給されたそうだ。
今まではPHSだったので、ちょっとDocomoになって嬉しそう(笑)。
先日の休日出勤の時に、お昼を一緒に食べたのだけど、その時面白いメールをみせてくれた。
身に覚えのない人からラブラブメールが届くんだって。
会社の借り上げ携帯電話なので、番号の凍結期間とかはよくわからないのだけど、会社から支給されたその日のうちに、そのメールは届いたそうだ。
最初はびっくりしたOさん(仮名)だが、他人宛のメールなので返事を出すわけにもいかず、全然知らない人が受け取ってるよと教えてあげるにしてもどう説明するのかわからないし面倒で、そのまま放置しているらしい(^^;。
そして、またそのラブラブメールの発信者さんは、返事がないことを不審に思わないのかなんなのか、結構頻繁にずっとメールをくれるらしいのだ。
Oさん(仮名)は、一緒に半日仕事をしているだけでも、頻繁に問い合わせや対応を求める連絡が携帯電話に入る人なので、そういう仕事の合間に飛び込んでくるラブラブメールには実際困っているらしい(^^;。
そんな話をしながらの食事中にもメールがとんできて、最新ラブメールも見せてもらった(笑)。
そろそろOさん(仮名)が新しい携帯電話をもらってひと月ぐらいたつ。
ラブメール発信者さんは、いい加減この事態に気がつかないものなのだろうか…?(^^;
では、また。
そういう人だから、緊急連絡などは会社支給の携帯電話が必須。
そのOさん(仮名)に会社から、新しい携帯電話が支給されたそうだ。
今まではPHSだったので、ちょっとDocomoになって嬉しそう(笑)。
先日の休日出勤の時に、お昼を一緒に食べたのだけど、その時面白いメールをみせてくれた。
身に覚えのない人からラブラブメールが届くんだって。
会社の借り上げ携帯電話なので、番号の凍結期間とかはよくわからないのだけど、会社から支給されたその日のうちに、そのメールは届いたそうだ。
最初はびっくりしたOさん(仮名)だが、他人宛のメールなので返事を出すわけにもいかず、全然知らない人が受け取ってるよと教えてあげるにしてもどう説明するのかわからないし面倒で、そのまま放置しているらしい(^^;。
そして、またそのラブラブメールの発信者さんは、返事がないことを不審に思わないのかなんなのか、結構頻繁にずっとメールをくれるらしいのだ。
Oさん(仮名)は、一緒に半日仕事をしているだけでも、頻繁に問い合わせや対応を求める連絡が携帯電話に入る人なので、そういう仕事の合間に飛び込んでくるラブラブメールには実際困っているらしい(^^;。
そんな話をしながらの食事中にもメールがとんできて、最新ラブメールも見せてもらった(笑)。
そろそろOさん(仮名)が新しい携帯電話をもらってひと月ぐらいたつ。
ラブメール発信者さんは、いい加減この事態に気がつかないものなのだろうか…?(^^;
では、また。
コンビニにおむすびが並ぶようになってかなり長いこと、おむすびの具は片側に寄せられてたよね。
あれは、機械で握ってる(?)せいだろうと容易に想像ができたし、個人的にべつに具が真ん中になければならん、とも思っていなかったのでかまわなかったのですが。
最近(去年ぐらい??)になって、コンビニのおむすびの具が真ん中(付近)に入るようになって、初めてそれに遭遇(笑)したときには、コンビニ業界も頑張ってるなぁと思ったものです。
しかし、おむすびの具は真ん中、ということが実現できるようになったからといって、ツナマヨむすびのマヨネーズを真ん中に入れるのは、いかがなものかと…(^^;。
炊き込みご飯系のツナマヨむすびって、満遍なく味がするのが個人的にポイントなわけで、マヨネーズだけ真ん中に入ってても嬉しくない…。
てか、真ん中だけマヨネーズ味が濃くて、その部分を食べると逆に気持ち悪いので止めて欲しい。
あちらをたてればこちらがたたず、ってこともないでしょうし、なんかアンバランスな気がするのよねぇ。
では、また。
あれは、機械で握ってる(?)せいだろうと容易に想像ができたし、個人的にべつに具が真ん中になければならん、とも思っていなかったのでかまわなかったのですが。
最近(去年ぐらい??)になって、コンビニのおむすびの具が真ん中(付近)に入るようになって、初めてそれに遭遇(笑)したときには、コンビニ業界も頑張ってるなぁと思ったものです。
しかし、おむすびの具は真ん中、ということが実現できるようになったからといって、ツナマヨむすびのマヨネーズを真ん中に入れるのは、いかがなものかと…(^^;。
炊き込みご飯系のツナマヨむすびって、満遍なく味がするのが個人的にポイントなわけで、マヨネーズだけ真ん中に入ってても嬉しくない…。
てか、真ん中だけマヨネーズ味が濃くて、その部分を食べると逆に気持ち悪いので止めて欲しい。
あちらをたてればこちらがたたず、ってこともないでしょうし、なんかアンバランスな気がするのよねぇ。
では、また。
女性に得意料理を尋ねると、高確率で「肉ジャガ」が入るらしい。
しかし、そのテの話題をふる場合のシチュエーションてのは決まりきっている感じがあって、「母の味(母性)」「家庭の味(家庭的)」などのキーワードが見え隠れしていて。
だから私は、肉ジャガは好きだし自分で作ったものを美味しいとは思うのだが、他人に「得意料理は肉ジャガです」とは、絶対に口にしたくないと思ってしまうのですよ(天邪鬼…)。
それにしても、肉ジャガって本当に「母の味」なの??
自分の場合、母は煮物全般は結構美味しく作る人だったが、肉ジャガが特別我が家風なアレンジがあったわけでもなく、スペシャルなメニューでもなかったのよね。
数少ない肉じゃがの外食経験(笑)からしても、大きな差は感じられなかったしなぁ。
そんなに家庭によっていろいろ違う(特徴のある)メニューなんでしょうか。
そもそも手料理に母性を見ようとする姿勢がナンセンスだと思うんだけどね。
料理なんて、作る人は自主的に作るし、苦手な人は最近ではしなくても暮らしていけるわけだし(昔と違ってお店多いからさ)、わざわざそこにセクシャリティを感じさせる必要ないと思うんだけどなあ。
では、また。
しかし、そのテの話題をふる場合のシチュエーションてのは決まりきっている感じがあって、「母の味(母性)」「家庭の味(家庭的)」などのキーワードが見え隠れしていて。
だから私は、肉ジャガは好きだし自分で作ったものを美味しいとは思うのだが、他人に「得意料理は肉ジャガです」とは、絶対に口にしたくないと思ってしまうのですよ(天邪鬼…)。
それにしても、肉ジャガって本当に「母の味」なの??
自分の場合、母は煮物全般は結構美味しく作る人だったが、肉ジャガが特別我が家風なアレンジがあったわけでもなく、スペシャルなメニューでもなかったのよね。
数少ない肉じゃがの外食経験(笑)からしても、大きな差は感じられなかったしなぁ。
そんなに家庭によっていろいろ違う(特徴のある)メニューなんでしょうか。
そもそも手料理に母性を見ようとする姿勢がナンセンスだと思うんだけどね。
料理なんて、作る人は自主的に作るし、苦手な人は最近ではしなくても暮らしていけるわけだし(昔と違ってお店多いからさ)、わざわざそこにセクシャリティを感じさせる必要ないと思うんだけどなあ。
では、また。
日常の積み重ねが過去を作る。
では、未来は何から出来ているのか。
人の記憶で過去が作られる。
では、未来は期待と憧れによって成り立っているのか。
時間は目に見えず、手で触れることもできず、ただ人の意識によってのみ存在する。
そんなことを考えてしまえる、こういう読後感があるから、読書はやめられないのだよ。
では、また。
では、未来は何から出来ているのか。
人の記憶で過去が作られる。
では、未来は期待と憧れによって成り立っているのか。
時間は目に見えず、手で触れることもできず、ただ人の意識によってのみ存在する。
そんなことを考えてしまえる、こういう読後感があるから、読書はやめられないのだよ。
では、また。
ノンフィクションを読むということ
2005年4月18日 エッセイ先週から読み始めた本が、途中からなんだか期待した方向とは違ってきていて、ちょっと辛い。
フィクションなら物語としてどこに着地しても、そういうお話なのだと思えるのだが(まあそれでも好みはやっぱりあるけど)、ノンフィクションだとテーマとなるものが期待はずれだった場合、それ以上読み進めるのが難しくなってしまう。
私が知りたいのは、そっちの話じゃないんだようと思いつつ今日はガマンして読み進めてみたけど、これは途中で挫折しそうな予感…。
他者への取材をベースにしたルポタージュ的なものであれば、まだ取材テーマそのものを期待して読むから大きくはずすことは少ないのだが、これが自伝的な著者の体験経験をベースにした本の場合、作品がどこに進むのかが不定で、自分の興味の方向に進むのかは一種の賭けみたいなものだ。
今回、私は著者の体験そのものから、著者が結論を出すまでの過程に興味を持って読んでいたのだが、実際は、著者がその結論を出すにいたった事件の背景と、その結論を出したことによる著者(とその家族)がさらされた事実とその後の活動が主に記述されているようなのだ。
途中、何度か著者が決断した時の感情にも触れているのだが、なぜかサラリと流して記述されているようで、物足りない…。
ルポタージュであれば、似たテーマに対して別のルポライターが書いた本が存在する場合があって、他の本を読むという選択肢もあるが、自伝的なものは、著者の体験が特殊であればある程、似たような性格の本を探すのは難しい。
まあ、そういう一期一会的な部分も本を読むということの醍醐味ではあるのだけどね。
では、また。
フィクションなら物語としてどこに着地しても、そういうお話なのだと思えるのだが(まあそれでも好みはやっぱりあるけど)、ノンフィクションだとテーマとなるものが期待はずれだった場合、それ以上読み進めるのが難しくなってしまう。
私が知りたいのは、そっちの話じゃないんだようと思いつつ今日はガマンして読み進めてみたけど、これは途中で挫折しそうな予感…。
他者への取材をベースにしたルポタージュ的なものであれば、まだ取材テーマそのものを期待して読むから大きくはずすことは少ないのだが、これが自伝的な著者の体験経験をベースにした本の場合、作品がどこに進むのかが不定で、自分の興味の方向に進むのかは一種の賭けみたいなものだ。
今回、私は著者の体験そのものから、著者が結論を出すまでの過程に興味を持って読んでいたのだが、実際は、著者がその結論を出すにいたった事件の背景と、その結論を出したことによる著者(とその家族)がさらされた事実とその後の活動が主に記述されているようなのだ。
途中、何度か著者が決断した時の感情にも触れているのだが、なぜかサラリと流して記述されているようで、物足りない…。
ルポタージュであれば、似たテーマに対して別のルポライターが書いた本が存在する場合があって、他の本を読むという選択肢もあるが、自伝的なものは、著者の体験が特殊であればある程、似たような性格の本を探すのは難しい。
まあ、そういう一期一会的な部分も本を読むということの醍醐味ではあるのだけどね。
では、また。
ノートパソコンを手にいれて一番やりたいと思っていたことの一つが、アナログ音源のデータ化。
昔のレコードが数枚残っていて、好きな曲ばかりなのよね。
レコードの再生機もまだ現役で使える状態にセットしてあったのだけど、なにぶんAVセットは居間に、パソコンは書庫にと別の部屋に設置してあるせいで、データコンバートが実質不可能な状態になっていたのでした。
これをどうにかCDにしておきたいとずっと思っていたので、本日ようやく決行することに(笑)。
アンプを経由してUSBでデータ出力が可能となる装置をセットし、USB経由でパソコンにデータ入力してWAVファイルに保存するだけなんだけど。
当然、等倍速録音になるのでデータ録音しながらレコードを聴くことになるわけで、懐かしい曲を耳にして、案外ちゃんと歌える自分にびっくりしたり。忘れないものなのねぇ。
とりあえず数枚のレコード分をファイルに落としておきました。
その後は、波形を見ながらチャプター分割してCDに焼くだけです。
アンプからUSBでのデータ変換装置そのものは、以前相棒が用意していたので今回はそれを借りただけ、あとはフリーソフトで適当にデータ変換も録音もチャプター切りもできるので、かなり簡単でした。
あと数枚気になるレコードがあるので、しばらく楽しめそうです。
では、また。
昔のレコードが数枚残っていて、好きな曲ばかりなのよね。
レコードの再生機もまだ現役で使える状態にセットしてあったのだけど、なにぶんAVセットは居間に、パソコンは書庫にと別の部屋に設置してあるせいで、データコンバートが実質不可能な状態になっていたのでした。
これをどうにかCDにしておきたいとずっと思っていたので、本日ようやく決行することに(笑)。
アンプを経由してUSBでデータ出力が可能となる装置をセットし、USB経由でパソコンにデータ入力してWAVファイルに保存するだけなんだけど。
当然、等倍速録音になるのでデータ録音しながらレコードを聴くことになるわけで、懐かしい曲を耳にして、案外ちゃんと歌える自分にびっくりしたり。忘れないものなのねぇ。
とりあえず数枚のレコード分をファイルに落としておきました。
その後は、波形を見ながらチャプター分割してCDに焼くだけです。
アンプからUSBでのデータ変換装置そのものは、以前相棒が用意していたので今回はそれを借りただけ、あとはフリーソフトで適当にデータ変換も録音もチャプター切りもできるので、かなり簡単でした。
あと数枚気になるレコードがあるので、しばらく楽しめそうです。
では、また。
なんて呼べばいいの?
2005年3月10日 エッセイ妹や弟の配偶者のことを、なんて呼ぶのが一般的なんでしょうか。
自分の姉や兄の配偶者であれば、「お義兄さん(おにいさん)」「お義姉さん(おねえさん)」になるでしょ?
他人に対しては、「義弟(ぎてい)」「義妹(ぎまい)」という説明口調(笑)の単語はあるけど、義弟本人への呼びかけに「義弟さん(ぎていさん?)」とか言わないよねぇ。
妹の配偶者、仮に山田太郎さんとしましょう。
彼女たちが付き合っている頃から知っている人だったので、当時から今もかわらず「山田さん」と呼びかけています。
本人も別に気にしてる風でもないし、まあ特に問題があるわけじゃないんですが、たまに妹の家(山田家本家の敷地内の別家屋)に遊びに行ったりしたときに、「山田さ〜ん」と呼びかける機会があるわけですよ。
そういう時に、なにか一般常識として義弟義妹への正式呼称?(笑)みたいなものがあるとして、それを知らないと恥ずかしいのかなぁとか、思ったりしたのでした(^^;。
では、また。
自分の姉や兄の配偶者であれば、「お義兄さん(おにいさん)」「お義姉さん(おねえさん)」になるでしょ?
他人に対しては、「義弟(ぎてい)」「義妹(ぎまい)」という説明口調(笑)の単語はあるけど、義弟本人への呼びかけに「義弟さん(ぎていさん?)」とか言わないよねぇ。
妹の配偶者、仮に山田太郎さんとしましょう。
彼女たちが付き合っている頃から知っている人だったので、当時から今もかわらず「山田さん」と呼びかけています。
本人も別に気にしてる風でもないし、まあ特に問題があるわけじゃないんですが、たまに妹の家(山田家本家の敷地内の別家屋)に遊びに行ったりしたときに、「山田さ〜ん」と呼びかける機会があるわけですよ。
そういう時に、なにか一般常識として義弟義妹への正式呼称?(笑)みたいなものがあるとして、それを知らないと恥ずかしいのかなぁとか、思ったりしたのでした(^^;。
では、また。
手のひらを自分に向けた時、両手の小指同士が一番近いでしょう?
私と相棒は多分、実家では小指の側にいる方だったと思う。
母と妹は物事の考え方とかとても似てるのだけど、私はそれに共感できなくて、実家にいた時はそれが元でイライラしたこともあったほどで。
相棒も似たような感情を持っていたようで、自分の家族の中で自分だけがなんとなく感覚が離れているような気持ちを抱いていたらしい。
相棒と一緒に暮らすようになって結構たつので、お互いの親族とは適当に面識があるわけですよ。
すると、相棒と相棒の親族との雰囲気の差に本当にびっくりするのよね。
ああいう考え方をする人たちの間で育って、どうして相棒みたいなタイプが出来るんだと、笑っちゃうぐらい(^^;。
それは相棒も私に感じているようで、私と私の親との違いに驚くことがあるという。
きっと親たちは親指側だったんだね。
自分たちは小指だったから、実家ではちょっと浮いていたり、違っていたりしてさ。
そんな話を肴に今日も晩酌の夜でした。
では、また。
私と相棒は多分、実家では小指の側にいる方だったと思う。
母と妹は物事の考え方とかとても似てるのだけど、私はそれに共感できなくて、実家にいた時はそれが元でイライラしたこともあったほどで。
相棒も似たような感情を持っていたようで、自分の家族の中で自分だけがなんとなく感覚が離れているような気持ちを抱いていたらしい。
相棒と一緒に暮らすようになって結構たつので、お互いの親族とは適当に面識があるわけですよ。
すると、相棒と相棒の親族との雰囲気の差に本当にびっくりするのよね。
ああいう考え方をする人たちの間で育って、どうして相棒みたいなタイプが出来るんだと、笑っちゃうぐらい(^^;。
それは相棒も私に感じているようで、私と私の親との違いに驚くことがあるという。
きっと親たちは親指側だったんだね。
自分たちは小指だったから、実家ではちょっと浮いていたり、違っていたりしてさ。
そんな話を肴に今日も晩酌の夜でした。
では、また。
物事に、100%だとか、絶対などと言い切れることは、ほとんどないと思っている。
私は、自分の持っている知識が完全であるとは到底思っていないから、何かを考える時には常に「自分の知らない知識、世界、事情、状態は存在する」というのが根底にある。
だから、「〜〜は〜〜〜なんだよ、絶対」という言い切り口調で断言することは自分では出来ないし、逆にそういう物言いをする人のことは信用できない。
もちろん、ケースバイケースっていうのはあって、初心者に何かを教える際に「〜〜は〜〜だ」と意識的に断言することで、相手にインパクトを与え、考え方をシンプルにすることで、理解させやすくするというテクニックというのはあるんだと思う。
個人的にはそんなテクニックも含めて私は嫌いだけどね。
そういう確信犯はともかく、本気で持論を信じて他人にそれを説くような人って、ほんの一握りを除いて、胡散臭いと思ってしまうんだよなぁ。
では、また。
私は、自分の持っている知識が完全であるとは到底思っていないから、何かを考える時には常に「自分の知らない知識、世界、事情、状態は存在する」というのが根底にある。
だから、「〜〜は〜〜〜なんだよ、絶対」という言い切り口調で断言することは自分では出来ないし、逆にそういう物言いをする人のことは信用できない。
もちろん、ケースバイケースっていうのはあって、初心者に何かを教える際に「〜〜は〜〜だ」と意識的に断言することで、相手にインパクトを与え、考え方をシンプルにすることで、理解させやすくするというテクニックというのはあるんだと思う。
個人的にはそんなテクニックも含めて私は嫌いだけどね。
そういう確信犯はともかく、本気で持論を信じて他人にそれを説くような人って、ほんの一握りを除いて、胡散臭いと思ってしまうんだよなぁ。
では、また。
私は根っからの楽天家で、基本的にポジティブシンキングな思考回路を持っているせいか、マイナス思考の人というのが、どうしても本当のところ理解できない。
というか、理解したいとは思うのだけれども、想像しかできない(つまりは想像でしかないわけで、その延長線上にあるであろう結論に自信が持てない)という自覚があるためか、共感しづらい。
ところで、相棒は実は結構なマイナス思考な人である。
それなりに愛想もよく、ジョークも言うし、対人関係においてはスムースに関係を保って仕事や外交ができる人なので、大抵の人は相棒は逆のタイプの人だと認識する傾向にあるらしい。
しかしよく見てると、常に自分にプライドを持っていて、そのプライドに見合うだけの自分でいようと、気を張り続けているようなところがある。
まあそういう自分への努力が自然にできる人であればいいのだろうけど、意外に自分で認識している以上にストレスになっているようで、たまにそれが溜まって体調と精神の不調になって現れるようだ。
私などは、何かを決断する時には結構すんなり自分の中では答えが出るほうで、その出した答えは本心にほぼ近いから、表現する際にストレスになることは少ないのね。
例えば仕事などで、どうしても自分の意思では変えられないもの、どうしても自分ではそういう答えは出さないのにしかしそれに携わらなければいけない事態に遭遇したとする。
そういう時、私の場合は、変えられない事態は受け入れるしかないので、あとはそれをどういうやり方で受け入れるのか、その部分を自分で決断しようと思うのね。
そうすれば、事態に対応する自分の意思や行動は自分の決定になるわけで、自分が出した決定ならば、全て自分の責任になるじゃない。
しかし、ネガティブな人というのは、まず直面した変えられない事態に不満を感じ、その不満が不動であればあるだけストレスになっていくみたい。
…そりゃあ大層なストレスだろうなあと想像できる。
でも、それって自分が辛いばっかりで、全然状況が変わらないよね。
私はせっかちだから、そういう状況で足踏みしている自分が許せない。もしかしたら、誰かが事態を改善してくれるのかもしれないと、待っていることが出来ない。
まずは自分で出来ることをやって、環境を自分で変えたいと思うから。
こういう考え方は、私にとってはかなり自然なことなのだけど、そういう方向に思考が動かない人、動くとしてもそれまでに時間がかかる人がいる。
そこで、では、そういう人(たとえば相棒)に、どうやってその人にとってあまり負担にならずに、自分で状況を改善しようという方向に思考を導いてあげられるのか、と考えました。
足踏みして下を向いている人がいたら、私は声をかけて手を引いてあげたい。
でも手をひっぱって、引きずって歩きたいわけじゃないのよ。
声をかけ、手に触れることで、その人自身が、歩き出そうと思えるように。
そんな手助けをしたいと思うのですが、具体的に何をしたらよいのやら。
試行錯誤しているのです。
では、また。
というか、理解したいとは思うのだけれども、想像しかできない(つまりは想像でしかないわけで、その延長線上にあるであろう結論に自信が持てない)という自覚があるためか、共感しづらい。
ところで、相棒は実は結構なマイナス思考な人である。
それなりに愛想もよく、ジョークも言うし、対人関係においてはスムースに関係を保って仕事や外交ができる人なので、大抵の人は相棒は逆のタイプの人だと認識する傾向にあるらしい。
しかしよく見てると、常に自分にプライドを持っていて、そのプライドに見合うだけの自分でいようと、気を張り続けているようなところがある。
まあそういう自分への努力が自然にできる人であればいいのだろうけど、意外に自分で認識している以上にストレスになっているようで、たまにそれが溜まって体調と精神の不調になって現れるようだ。
私などは、何かを決断する時には結構すんなり自分の中では答えが出るほうで、その出した答えは本心にほぼ近いから、表現する際にストレスになることは少ないのね。
例えば仕事などで、どうしても自分の意思では変えられないもの、どうしても自分ではそういう答えは出さないのにしかしそれに携わらなければいけない事態に遭遇したとする。
そういう時、私の場合は、変えられない事態は受け入れるしかないので、あとはそれをどういうやり方で受け入れるのか、その部分を自分で決断しようと思うのね。
そうすれば、事態に対応する自分の意思や行動は自分の決定になるわけで、自分が出した決定ならば、全て自分の責任になるじゃない。
しかし、ネガティブな人というのは、まず直面した変えられない事態に不満を感じ、その不満が不動であればあるだけストレスになっていくみたい。
…そりゃあ大層なストレスだろうなあと想像できる。
でも、それって自分が辛いばっかりで、全然状況が変わらないよね。
私はせっかちだから、そういう状況で足踏みしている自分が許せない。もしかしたら、誰かが事態を改善してくれるのかもしれないと、待っていることが出来ない。
まずは自分で出来ることをやって、環境を自分で変えたいと思うから。
こういう考え方は、私にとってはかなり自然なことなのだけど、そういう方向に思考が動かない人、動くとしてもそれまでに時間がかかる人がいる。
そこで、では、そういう人(たとえば相棒)に、どうやってその人にとってあまり負担にならずに、自分で状況を改善しようという方向に思考を導いてあげられるのか、と考えました。
足踏みして下を向いている人がいたら、私は声をかけて手を引いてあげたい。
でも手をひっぱって、引きずって歩きたいわけじゃないのよ。
声をかけ、手に触れることで、その人自身が、歩き出そうと思えるように。
そんな手助けをしたいと思うのですが、具体的に何をしたらよいのやら。
試行錯誤しているのです。
では、また。
昼休みに一冊読了。
最後の最後にきて泣かされました。
でも、他の人の目が気になって、せいせい泣けなかったのは、ちょいと辛いところでしたが(^^;。
外で(自宅以外で)本を読んでいると、内容によって笑ったり、泣いたりすることにどうしてもためらいが生じてしまって、結果どっぷり本の世界に浸かれないことがあるよね。
予め予測が出来ていれば、家で読むなりの対処をするんだけど。
で、爆笑はともかく、くくくとこみ上げてくる笑いを抑えるのはまだ比較的マシなんだけど、涙をこらえるのは本当に大変(笑)。
いつだったか、漫画雑誌をちょいと立ち読みしてみようと思ったら、不覚にも物語のクライマックスのエピソードで涙を誘われてしまい、売り場で立ち尽くしながらうろたえたことがある(^^;。
あれは我ながら恥ずかしい体験だった…。
しかし、よい物語でした。
読後、感情が胸の中でうずまくような、そういう気分は毎回得られるものでもないわけで。
これがあるから、また次を読もうという気になるのよねぇ。
では、また。
最後の最後にきて泣かされました。
でも、他の人の目が気になって、せいせい泣けなかったのは、ちょいと辛いところでしたが(^^;。
外で(自宅以外で)本を読んでいると、内容によって笑ったり、泣いたりすることにどうしてもためらいが生じてしまって、結果どっぷり本の世界に浸かれないことがあるよね。
予め予測が出来ていれば、家で読むなりの対処をするんだけど。
で、爆笑はともかく、くくくとこみ上げてくる笑いを抑えるのはまだ比較的マシなんだけど、涙をこらえるのは本当に大変(笑)。
いつだったか、漫画雑誌をちょいと立ち読みしてみようと思ったら、不覚にも物語のクライマックスのエピソードで涙を誘われてしまい、売り場で立ち尽くしながらうろたえたことがある(^^;。
あれは我ながら恥ずかしい体験だった…。
しかし、よい物語でした。
読後、感情が胸の中でうずまくような、そういう気分は毎回得られるものでもないわけで。
これがあるから、また次を読もうという気になるのよねぇ。
では、また。
職場における「やりがい」というのは、どこにあるのか。
ちょっと前に日記サイトかどこかで、仕事にはやりがいがあるべきではないか、それを与えてくれない職場はいかがなものか、というような内容の文章を読んだ。
前半の、「仕事にはやりがいがあるべきではないか」に関しては、それにこしたことはないと思うので、まあいいとする。
しかし後半の「それを与えてくれない職場」に対する不満に、違和感を覚えたのだ。
やりがいって、他人から与えられるもの、なの?
やりがいをどこに感じるのかは人それぞれだと思う。
それは例えば、与えられた作業をこなすことへの達成感であったり、課題に対する解答を創作することへの意欲であるのかもしれない。
しかし共通するのは、何かに対峙する時の自分の心構えと、それをクリアすること(またクリアしようとすること)への、能動的な感情ではないか。
そもそも受身的な立場では、やりがいってえられないと思うのだけどなぁ。
うーむ。
では、また。
ちょっと前に日記サイトかどこかで、仕事にはやりがいがあるべきではないか、それを与えてくれない職場はいかがなものか、というような内容の文章を読んだ。
前半の、「仕事にはやりがいがあるべきではないか」に関しては、それにこしたことはないと思うので、まあいいとする。
しかし後半の「それを与えてくれない職場」に対する不満に、違和感を覚えたのだ。
やりがいって、他人から与えられるもの、なの?
やりがいをどこに感じるのかは人それぞれだと思う。
それは例えば、与えられた作業をこなすことへの達成感であったり、課題に対する解答を創作することへの意欲であるのかもしれない。
しかし共通するのは、何かに対峙する時の自分の心構えと、それをクリアすること(またクリアしようとすること)への、能動的な感情ではないか。
そもそも受身的な立場では、やりがいってえられないと思うのだけどなぁ。
うーむ。
では、また。
仕事で遅く帰ってくるせいで、最近全然猫たちと遊んでない。
しかし、朝は早くに家を出る家族の影響もあって、少し早く起きるためにちょっと時間がとれる。
そんな時は、ゆっくり食事をして、部屋をちょっと片付けてから猫たちとぼんやりと時間を過ごすようになった。
もともと甘えん坊の気が強い兄猫は、朝などは人の後ろをずっとついて歩いてるようなヤツなんだけど、今まで朝は忙しくてそれにかまってやれることはほとんどなかった。
そのせいか、大体支度が終わって家を出る頃には、他の猫に八つ当たりしているのか大運動会が始まっていたりして、眠そうな妹猫などは迷惑顔をしていたものでした(^^;。
最近は、ついて歩く兄猫を抱き上げて、ゆっくりなでながら声をかけてあげる時間をとるようにしている。
すると、兄猫はとてもおちついた表情で甘えてきて、本当にうっとりしているような顔になってくるのを見られるようになった。
ぐるるぐるると喉を鳴らして、身体を押し付けるようにくっついてくる様子がかわいらしくて、こちらもつい何時までもなでてあげたくなく。
(そして、時計をみて、ギョっとして慌てて支度するのだわ(笑))。
落ち着いた様子でリラックスしてきた後は、お気に入りの暖かな場所にゆっくり寝かせてやると、そのまま眠りに入るようで、それまで迷惑顔だった妹猫も日向でぼんやり。
ああ、平和だなぁ(笑)。
もうちょっと、ちゃんと世話をやいてあげないと駄目だなぁと、反省しました。
では、また。
しかし、朝は早くに家を出る家族の影響もあって、少し早く起きるためにちょっと時間がとれる。
そんな時は、ゆっくり食事をして、部屋をちょっと片付けてから猫たちとぼんやりと時間を過ごすようになった。
もともと甘えん坊の気が強い兄猫は、朝などは人の後ろをずっとついて歩いてるようなヤツなんだけど、今まで朝は忙しくてそれにかまってやれることはほとんどなかった。
そのせいか、大体支度が終わって家を出る頃には、他の猫に八つ当たりしているのか大運動会が始まっていたりして、眠そうな妹猫などは迷惑顔をしていたものでした(^^;。
最近は、ついて歩く兄猫を抱き上げて、ゆっくりなでながら声をかけてあげる時間をとるようにしている。
すると、兄猫はとてもおちついた表情で甘えてきて、本当にうっとりしているような顔になってくるのを見られるようになった。
ぐるるぐるると喉を鳴らして、身体を押し付けるようにくっついてくる様子がかわいらしくて、こちらもつい何時までもなでてあげたくなく。
(そして、時計をみて、ギョっとして慌てて支度するのだわ(笑))。
落ち着いた様子でリラックスしてきた後は、お気に入りの暖かな場所にゆっくり寝かせてやると、そのまま眠りに入るようで、それまで迷惑顔だった妹猫も日向でぼんやり。
ああ、平和だなぁ(笑)。
もうちょっと、ちゃんと世話をやいてあげないと駄目だなぁと、反省しました。
では、また。
近辺の獣医師会が主催する里親募集イベントに行ってみた。
このあたりに引っ越してきてからお世話になってる獣医さんのところも加入しているらしく、定期的に催しを行っているためポスターをよく見かけていたのだ。
それで、偶然家の近くで開催されるらしいことを知り、出かけてみることにした。
今回は珍しく、とても里子の少ない回だったようで、犬猫それぞれ1頭。
それに対し、里親希望は4、5組という熱愛ぶり(笑)。
実は里子の数が少なくて、里親抽選の前に諦めて帰った人たちも多くいて、イベントそのものがこの地域でちゃんと知名度もあり、活動が認められているのだなと感心したのでした。
うちはといえば、縁のある子がいれば…といった感じで出かけてみたのだけど、今回はどの里子ちゃんもモテモテで、みんな幸せになれそうな雰囲気だったので、里親が決定するまで見学して帰ってきました。
--
数ヶ月前、うちからアクシデントで脱走してしまったあの子は、ちゃんと元気でいるだろうか。
脱走当時、いろいろな思いが混ざり合って、感情がどうしても落ち着かなかった。
今でも一部の(猫好きの)友人にしか話してないし、こういう家族同然だけどヒトではない存在に対して理解のない人(たとえば実母とか)には話せないのだけど、そろそろ自分の中で落ち着いてきたので、少し書いてみようと思う。
--
他人から見たらどうかわからないけど、自分としては当時出来るだけの行動はしたつもり。
だけど、結論として、あの子は帰ってきていない。
一方で寂しさはあるけど、また一方では、うちじゃなくても、どこか別の場所ででもいいから、元気でいて欲しいなぁ、と思う。
あのコが脱走して数週間後、家からちょっと離れた車のとおりの激しい道路の端に、遠目に小動物の可哀想な姿が目に入った。
体のサイズや色から、もしかしてあの子かと瞬間的にショックをうけ、次にそんなはずはないと根拠のない言葉が思い浮かび、それでもそのままあやふやに出来なくて、意を決して確認をしに近づいた。
小さい体は若い猫だった。
車の事故にあったらしく、酷い怪我で、素人目にも即死に近かったのだろうと想像できた。
そして、毛色はあの子そっくりの白黒のサバ模様で、その瞬間心臓がドキリと跳ね上がった。
しかし、首には見たことのない柄の首輪をしていて、顔にはあの子の特徴であった白いポイント柄がない。
薄情だとも思うし、自分勝手だとも思うけど、正直、そこまで確認してから、ホっと息をついて、安心した。
ヨカッタ、アノコジャ、ナカッタ。
そして、そっと、短く、このコの彼岸での幸せを祈る。
しかし首輪をしてるということは、この可哀想なコにも家族がいるわけで…、ホっとした自分がちょっと後ろめたく感じたのも事実。
--
雨の日の夜、ふと窓から外を見る。
ぬれてないかな。
ちゃんと暖かい場所でお腹いっぱいになってるのかな。
いつか、また、会えるだろうか。
--
そんないろいろなことから、今回ちょっと覗いてみた里親募集イベント。
沢山の里親候補としてやってきていた人たちをみて、なんだかほんわりと暖かくなったのでした。
では、また。
このあたりに引っ越してきてからお世話になってる獣医さんのところも加入しているらしく、定期的に催しを行っているためポスターをよく見かけていたのだ。
それで、偶然家の近くで開催されるらしいことを知り、出かけてみることにした。
今回は珍しく、とても里子の少ない回だったようで、犬猫それぞれ1頭。
それに対し、里親希望は4、5組という熱愛ぶり(笑)。
実は里子の数が少なくて、里親抽選の前に諦めて帰った人たちも多くいて、イベントそのものがこの地域でちゃんと知名度もあり、活動が認められているのだなと感心したのでした。
うちはといえば、縁のある子がいれば…といった感じで出かけてみたのだけど、今回はどの里子ちゃんもモテモテで、みんな幸せになれそうな雰囲気だったので、里親が決定するまで見学して帰ってきました。
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数ヶ月前、うちからアクシデントで脱走してしまったあの子は、ちゃんと元気でいるだろうか。
脱走当時、いろいろな思いが混ざり合って、感情がどうしても落ち着かなかった。
今でも一部の(猫好きの)友人にしか話してないし、こういう家族同然だけどヒトではない存在に対して理解のない人(たとえば実母とか)には話せないのだけど、そろそろ自分の中で落ち着いてきたので、少し書いてみようと思う。
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他人から見たらどうかわからないけど、自分としては当時出来るだけの行動はしたつもり。
だけど、結論として、あの子は帰ってきていない。
一方で寂しさはあるけど、また一方では、うちじゃなくても、どこか別の場所ででもいいから、元気でいて欲しいなぁ、と思う。
あのコが脱走して数週間後、家からちょっと離れた車のとおりの激しい道路の端に、遠目に小動物の可哀想な姿が目に入った。
体のサイズや色から、もしかしてあの子かと瞬間的にショックをうけ、次にそんなはずはないと根拠のない言葉が思い浮かび、それでもそのままあやふやに出来なくて、意を決して確認をしに近づいた。
小さい体は若い猫だった。
車の事故にあったらしく、酷い怪我で、素人目にも即死に近かったのだろうと想像できた。
そして、毛色はあの子そっくりの白黒のサバ模様で、その瞬間心臓がドキリと跳ね上がった。
しかし、首には見たことのない柄の首輪をしていて、顔にはあの子の特徴であった白いポイント柄がない。
薄情だとも思うし、自分勝手だとも思うけど、正直、そこまで確認してから、ホっと息をついて、安心した。
ヨカッタ、アノコジャ、ナカッタ。
そして、そっと、短く、このコの彼岸での幸せを祈る。
しかし首輪をしてるということは、この可哀想なコにも家族がいるわけで…、ホっとした自分がちょっと後ろめたく感じたのも事実。
--
雨の日の夜、ふと窓から外を見る。
ぬれてないかな。
ちゃんと暖かい場所でお腹いっぱいになってるのかな。
いつか、また、会えるだろうか。
--
そんないろいろなことから、今回ちょっと覗いてみた里親募集イベント。
沢山の里親候補としてやってきていた人たちをみて、なんだかほんわりと暖かくなったのでした。
では、また。