昔、中学生ぐらいだったかなぁ。
自分が死ぬっていう感覚が全然想像できなくて。

いえね、死に直結する事象(海でおぼれて窒息するとか?)に伴う身体の痛みがあるのは嫌だなあと、単純な痛みに対する拒否や恐怖はあったんだけどさ。
自分っていうのがこの世界からいなくなるっていうのが、どういうものなのか不思議すぎてさ。

丁度目先に、ノストラダムスの予言の年とか世紀を跨ぐアニバーサリーイヤー?があったりしたから。
その年になったら世界が終るかもしれない(笑)なんてまったく漠然と思っていて、それまでにこんなことができたらいいな(海外旅行してみたいとか、ささいなこと)なんて自分の未来を想像したりしてたわけです。

で。
実際にその年を何の問題もなく通過してしまったら、自分の中でその先のビジョンが全然持てなくなっていたのに、ちょっとびっくり…(^^;。
それに気が付いたとき、自分の意識の中では、以降は余生、なんて感覚になってしまったのよねぇ…。



人生に大きな目標があったり執着が強い人は、それを成し遂げることなく終わる人生に納得いかないことはあるんだろう。
でもヒトって、皆が皆そういう目標をもっているのかしら。
少なくとも私には、そういう明確なものはないんだよねぇ。


明日あなたは死にます、と確実な予言を受けた場合。

死ぬのが自分一人であるなら(世界はまだ終わらないのであるなら)、それにむけて親しい人に何かを残したり伝えたりといった行動はとるかもしれない。
けど、私の場合、その「確実な予言」を覆そうと努力したり足掻いたりしないような気がする。
受け入れる、というような大層なことではないんだけどね。
努力して覆してまでして手に入れるその後の時間、というものに…もしかしたら過剰な期待を持っていないからなのかなあと、今思った。


私はかなり大雑把な性格なほうだし、物事がどうなるのか悲観することなんか全然ないんだけど。
世の中が、自分が生きていくのにかかわりのある範囲で、これからもっとよくなる世界に住んでいる、とは全然言えない程度には楽観主義者でもない。



生まれたら、死ぬまでは、生きるものだ。

と、何の根拠もなく思っているから、今日も生きています(笑)。



死は生き物には、当然、必ず訪れるもの。
そして死は、死にゆく当人にとってどれほどのイベントでありうるのかは、その人の死に対する感覚によって違うと思う。



自分だったら。
死は、今まで通過してきたいろいろな節目と同じ程度の出来事として受け止められたらいいなあ、と今は思うのです。




では、また。

コメント

美藤
2014年8月29日11:50

一言一句に同感です。
私が書いたのかと思っちゃいました(笑)

私は「確実な予言」が欲しいなーと思ったりするんです。

はにゃ。
2014年8月29日12:03

>生まれたら、死ぬまでは、生きるものだ。

ですねぇー。ホント。

私は一度死に損なってるので、何と無く「死」って意外にすぐ傍だったり、その辺りに転がってるもんだよなぁという気もするんですけど。

と同時に、今は全然傍にいない様な気もするんです。

以前は誰かと喧嘩をしたまま別れないというモットーがあったのですが(そのまま死んじゃったら仲直りできないから)(笑)、いまはそれならそれで仕方ないなーまで諦観してるかなぁー。

少なくとも「家族が気を遣って末期がんだって告げないまま亡くなった」みたいのは、私はイヤだなー。それ位ですかね。

砂姫
2014年8月29日18:39

コメント、ありがとう(^^)

>> 美藤 さん
嬉しいお言葉ありがとう。
私は予言はあってもいいけどなくてもいいかな(笑)。
ただ、もし予言されることがあったらどうしようかな?ってシミュレートするのは無意味じゃないかも、って考えました。

>> はにゃ。 さん
最初、諦観を達観と読み間違えて、んん?とか思ってしまいました(笑)。
諦観のほうが、すこーしだけかなしみ成分が入っている印象がありますね~。

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