中学生ぐらいの時だと思う。丁度思春期な頃。

それまで世界は自分を中心にしたある特定の範囲内で全てが完結していた。
そういう世界だと、親は絶対者で、大人(年長者)はすばらしい人で、教師はなんでも知っている凄い人だと思いがち。

お父さんは、私にとってはずっとお父さんで、実は私のお父さんじゃなかった時期(父親、になる前)のほうが長いだなんて、想像もしたことがなかったぐらい。

それが、中学の頃あたりで、漠然と「ちょっと待てよ」と思い始める。

私の場合はそれが母親だった。

どうも彼女は頼りない存在で。
常に自分の意見を主張する努力をせずに愚痴ばかり言っている(ような印象がある)。
大きな買い物をする時に決断を他人(父親)まかせにする。そして、その決定に不満があっても真っ向からは発言しない。

他にも細かなことはいろいろあるのだが、とにかく描いていた理想の大人、責任感のある立派な社会人としてこうあるべきと描いていた人物像から、母親があまりに逸脱していたので、ショックと反感を覚えた。
そして、尊敬するのが難しく感じはじめる。

ついでに女性性の観念を押し付けられ始めたと感じるようになったのも同じような時期だったので、余計に女性である母親を疎ましく感じるようになったんだと思う。

この感情はとても長く続いた。

転機があったのは、多分家を出た頃だと思う。
仕事の関係で実家を出ることになったのだけど、それが私にはよかったようだ。

私と母親は、性格や好みといった観点で考えると、絶対に友達にはなり得ない人だ。
もちろん一緒に家族として暮らした長い年月もあるから、十分に情はあるのだけど、恐らくお互い近い年齢の他人として出会ったら、会話のかみ合わない、接点の少ない人になっていた可能性大。

四六時中、気の合わない人と生活するということのストレス。
そんなものから解放された気がする。

そして離れたことで、やっと母親を客観的にみることが出来たと思う。

子どもの頃にずいぶんと手厳しく批判的に思っていた母親の言動が、特別頼りなかったわけでも、酷かったわけでもないと気づく。
逆に、自分の中での理想像が、あまりにハードルの高い聖人のようなものだったことにも。

「大人」という言葉で、自分の中で象徴していた、すばらしい人、あるべき姿、立派な、そういう漠然とした存在は、実在しないことに気がついた時、親も自分と同じ一個人なんだなぁと、いきなり、わかった。

小学生の時、成人した従兄弟をみて、漠然とした憧れを抱いた。
成人したなんて凄い、「大人」になったなんて凄い。

そして自分が成人して思う。
昨日までの自分と、今日の自分に全く違いがないことを。

あの、子どもの自分が「凄い」と憧れたものに、自分はそんな資格もなく自覚もなく、立派でも憧れるものも持ってないのに、どうしよう、「大人」になってしまった。

そんな経験を通して思ったこと。
いい部分も悪い部分も全部併せ持って、混沌としていて当たり前。
「大人」という言葉は、スペシャルなものではなく、私にとっては自分から相対的に見て大きな(年長の)人たちの総称、に変わった。

そして親も完璧な人物ではなく、いつか自分がなるかもしれない程度には普通の人なんだなぁと改めて思う。

だとすると。
思春期の私は随分と母親に失礼なことを思っていたものだ。客観的にみて、かなり不公平な評価を下していた。
そんな風に感じるようになった。

今でも私は母の親しい友達にはなれていない。

これはもう仕方がないと思う。そもそもやっぱり趣味も嗜好も違いすぎる。
でも、それでも嫌悪感は少なくなったし、家族として暮らしてきた年月をバックボーンに、情も感じることができる。

これが一般的なものかはわからない。
でも、こういう関係性もアリだと思う。

これって、一種の親離れって言うのかしらね?
と相棒と話し合った夜。

では、また。

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