言葉の定義

2005年10月13日 エッセイ
何かに対する議論を行おうというなら、まずは共通言語を持つことが大切ではなかろうか。

一つの単語を、違う意味合いで使っている人間同士が会話をすると、きっと会話は成り立たないし、議論もかみ合わない。

外国語で考えてみれば当たり前のように納得してもらえることだと思うのだが、なまじ同じ言語を話しているという意識が、その齟齬の存在そのものを忘れさせてしまうことがある。

ちょっと前に読んだ文章だ。

自分の姉が結婚することになった。
姉は結婚披露宴はできればやりたくないので、家族だけでのこじんまりとしたものを開きたいと思っていた。
そこで姉は母に「家族だけで集まって食事」と何度も何度も説明し、母も納得していた。
しかし、母は招待状の枚数の確認といっては何十枚も必要だと言い出すし、親戚のナントカさんは当日うちに泊まるのかどうかを心配している。
気になって母親に確認すると、家族というのは母の頭の中では「父、母、自分(妹)、祖母、叔父夫婦、伯父夫婦、いとこ夫婦」まで含まれていたことが判明した。

というような話。

この場合は「家族」という単語に含まれる意味合いに齟齬があったということなんだが、こういうのは実はよくあるんじゃないかと思った次第。

例えば「不倫は是か否か」といった議論をしたいなら、まずは不倫という言葉の定義から始める必要があるだろう。
二人で会って食事をしたら?、一緒の部屋で寝ただけで?、キスだけなら?、身体を許したら?、それとも心が揺れただけで??

この前提がちゃんとなされていない場合、その後の議論は無意味に等しい。
なぜなら、そこで得られるかもしれない答えが、前提によっては成り立たなかったり、意味がなかったりするからだ。

そしてまた、誰でも知っている単語を自分独自の解釈で使うのも、議論の場ではやめたほうが良い。

他人からすると、自分も知っている単語であれば、自分の知っている意味合いで使っているのだと理解するからだ。

そのような、会話を破壊するような単語の使い方はやめるべきだし、どうしても自分がしっくりくるニュアンスが他の単語で表せないのであれば、せめて自分はどういう思いでその単語を使っているのかを説明する必要があるだろう。

実際、まずは単語の定義から、なんてやっていると肝心な議論そのものにとりかかるまでの準備で疲れてしまいそうだけど、でも前提って大切なものなんですよ。

では、また。

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